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おわりに(佐藤 義夫)

 思い起こせは10年ほど前に、私はこう書いたことがある。
 「これまでの介護や医療の歴史は、市民の参加そのものが『不必要』として扱われてきた歴史である。現在、『公的介護保険』が示すものは、福祉や医療を専門家に任せてきたこれまでのシステムの行き詰まりであり、そのことがケアマネジメントとアセスメントという二つの点に表現されている。なぜならば、戦後一貫して解体されてきたものが、人びとのマネジメントとアセスメントに関する『体験』であり、それが自分たちで可能であるという『思想』であり、そして、自分たちのものであるという『主体性』にほかならないからである。
 もとより高齢化問題は、私たち自らが住む地域社会の問題である。地域に新しいケアシステムをつくることは、地域住民が『自己の主体性』をとり戻すことでなくてはならない。その時、私たちの運動は、解体に瀕している都市のコミュニティを再興する様々な運動に合流するであろう」(公的介護保険を考える 社会保険旬報1995年)
 そして、10年後の今、介護保険は人々の夢や希望を振り捨てながら別のものへと生まれ変わりつつある。
 介護保険は「自立した個人が自己決定して必要なサービスを選択する」のだと言う。これはフィクションである。だから、介護保険はフィクションの上に成立している……。
 いやいや、そうしたことはむしろ正確ではない。介護保険のみならず、世界は今自立した個人の集合として仮構されている。市場原理の中で格差が生まれたとしても、公平な競争であるかぎり、それは少しも悪いことではない。むしろ競争を継続させ、経済がさらに成長することによって、豊かさは拡大し、今は恩恵に浴さない人たちもやがてはその恩恵を分かち合うことができるようになる。かくして世界は自由と民主主義に覆い尽くされるというのが、おおよその自由主義の、そしてグローバリゼーションの思想である。
 グローバリゼーションは、文字通り世界を覆い尽くす巨大な市場を作り出すために、人々の市場システムへの参加を要求する。しかし参加が許されるのは市場のルールを内面化することのできる自立した個人(近代的市民)であり、システムからはみ出すアナーキーや放埓や異邦人の参加は認めない。かくして市場が内部化されない共同体・地域・国家は解体、放逐の対象となり、援助や買支えとして福祉が動員される。
 福祉は世界市場を維持・発展させるための必要経費である。従って、可能な限り低コストで持続可能なものでなければならず、そのためには福祉や介護も標準化され産業化されなければならない。その時、システムからはみ出す(制度の隙間を埋める)小規模多機能は介護保険にとっては余計なものとなるのである。そして、小規模多機能の魅力が彼らを取り巻く共同性の魅力であるとすれば、小規模多機能の征伐戦は、そのまま共同性の征伐戦である……。
 と、ここまで思い至って、それではこのような閉塞を打ち破る処方箋とは何かと自問した。にもかかわらずなかなか処方箋は見当たらなかった。
 時代はポストモダンと言われて久しい。すでに、人々は「自立した個人」である前に、砂のような大衆となっており「貧しい主体性」を晒している。にもかかわらず、市民社会の成熟というフィクションはさらに精緻にシステム化され、人々をの異議申し立てを沈黙させる。そうしたことが私を憂鬱にした。
 しかし、と改めて考える。小規模多機能が人々を引きつける魅力がその共同性にあるのなら、いかに共同性の征伐戦が行われたとしても、およそ人々から共同体への希求が失われることもまたないだろう。仮に「今ここにある危機」への処方箋があるとすれば、人々の共同性への希求こそがそうなのではあるまいか。
 「人々の共同性への希求は、これまでも常に『個人の孤独』がなかったかもしれない過去の記憶をたどりながら、『個人の孤独』がなくなるかもしれない未来(「この私は一人ではなかった」!)へと向けた社会変革の原動力となってきた」(長崎浩)のだとすれば、小規模多機能は決して消え去ることはないのだと信じたい。
 最後に、本書の執筆のきっかけともなったファイザーヘルスリサーチ振興財団ならびに研究会の方々、インタビューや事業所訪問に快く応じてくださった方々、さらにまた編集者であるSEGGEの菅原政美氏など多くの方々に様々なご協力と援助をいただいたことについて、改めてお礼を申し上げたい。 

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